前回に引き続き、古都アユタヤの世界遺産遺跡を歴史ごとに追う
ワット・ラチャブラナの側にあるMalakor Restaurantでのご飯 |
1448年 ワット・プラ・シーサンペット(Wat Pra Srisanpet)
アユタヤ王宮内にあった最も重要な寺院の一つなのだが、実際は寺院ではない。名称は御吉祥活仏寺院程度の意味であるとwikipediaやいろいろなブログに書いてあった。
意味わからなさすぎ。
「ワット・プラ・シーサンペットって実際は寺じゃなくて御吉祥活仏寺院程度の意味らしいよ」
こんなん言われても絶対「へぇ」なんて納得できないでしょ。
しかも、調べて出てこないから意味どころか読み方でさえわからない。多分、
御(お 尊敬の意)
吉祥(きっしょう 吉祥天=福徳の神)
活仏(かつぶつ 仏や菩薩などの転生者)
寺院(じいん 宗教施設)
から推測するに「福徳の神の転生者様がいる宗教施設」
この東西に立ち並ぶ三基の仏塔には、トライローカナート王とその王子二人の遺骨が納められている。つまり墓。
このころには「サームプラヤー」によってバラモン教が入ってきている。
そこでは「王は神あるいは神の化身」としている。
アユタヤ王朝に「福徳(吉祥)」をもたらす「神の化身(活仏)」が「アユタヤ王(御)」で、
「アユタヤ王(御)」を「祀る施設(寺院)」がワット・プラ・シーサンペット。
つまり「御吉祥活仏寺院(おきっしょうかつぶつじいん)」
仏塔の東側に本堂が後に建立され、大変大きく純金に覆われた立仏像が置かれていた。この仏像こそが寺院名にもなった「プラ・シーサンペット」
1767年に、ビルマ軍によって寺院や仏像は破壊されたが、戦後になって修復され現在の姿へ。
1550年頃 ワット・ローカヤ・スタラーム(Wat Lokaya Sutharam)
別名 ワット・ローカヤ・スター(Wat Lokaya Sutha)あるいは「寝仏の寺」
今まで見てきた遺跡の中で、最も寂しかった場所。あるのは一基の仏塔と大きな涅槃仏。そして足元に広がる、倒壊した建築物の跡。
草花が容赦なく建物を侵食している。
タイを襲った先の大洪水では、この涅槃仏も半分ほど水没してしまったとの事。
当時はそんな事知らなかったので意識していなく見落としていただけかもしれないが、
洪水を感じさせるような跡は存在していなかった。
観光においてメリハリは重要。
毎日毎日似たようなものを見ると、感覚が麻痺しなんとも思わなくなってしまう。
現に涅槃仏に関しては、もともと興味があまりない事もあり、この段階ですでに食傷気味だった。
ではなぜ遺跡は最後まで楽しめたかというと、この存在が大きいように感じる。
今まで見た遺跡は、何基もの仏塔や仏像が残っていたり復元されていたり数が多かった。
そんな中、一つの涅槃物と一つの仏塔。メリとハリの差が半端ない。
もしここを最初に観光していたらつまらない場所になっていたかも。
もしここを最後に観光していたら速攻帰っていたかも。
でも実際はちょうど真ん中あたりで見ることができたから、とてもいい場所に感じた。
1603年 ヴィハーン・プラ・モンコン・ボピット(Viharn Phra Mongkol Bopit)
この中には入らなかったので外観だけ。タイ最大のブロンズ製の仏像を安置する塔堂。
周りにはお供え物を売る人、人間用の飲食物を売る人などがたくさんいた。
1630年 ワット・チャイ・ワッタナラーム(Wat Chai Wattanaram)
最有力な説は、24代目の王様が亡くなった母を偲んで建てた。もう一つの説は、建築様式からカンボジアとの戦いに勝利を収めた記念として建てた。
勝利を収めたのなら「ワット・ヤイ・チャイ・モンコン」のように大きなものを建てるはず。
なので私の中では、王様が母を偲び建てた寺院とする。
中央の主塔の四方には四基の塔堂を従え、それを回廊が取り巻き、最終的に八つの塔がそれを囲む。
仏教の宇宙観では、須弥山の周りに八つの山と四つの島があると先日勉強した。
ここはそれを表現している寺院なのだ。
当時はそんな事微塵たりとも知らなかった。
だけど、とても興奮した。
仏教の世界を忠実に表し作られている場所。
仏教のブの字も知らない私がこの場所で気持ちが昂る。
いつか自分の芯が折れ、ほかに頼るものがなくなってしまった時、
そんな時は仏教の世界に飛び込もうと思う。
修行は嫌だから大乗仏教の世界だけども。
そんな大きな「ワット・チャイ・ワッタナラーム」はアユタヤ王朝の滅亡まで、王様の法事を執り行う王室寺院でもあった。
「王は神」という思想から、真ん中の主塔で執り行っていたのかな。
入口から入って左の方に完全復元模型あり。
観光的にはここまで復元せずに、今のままでいいと思う。
ここまでされてしまったら、きっとつまらなくなってしまう。
カンボジアのアンコールワットのように。
1754年 ワット・プーカオ・トーン(Wat Phu Khao Thong )
もともとは1387年にワレスワン王によって建立されたが、1569年にビルマがアユタヤを占領した時に建て替えた。
ひたすらスクラップだと思っていたらビルドもしちゃうビルマ軍。
だけど占領下も一時の事。ナレースワン王がここを奪還し、また建て替えたのが1754年の事。
よっぽど大切な場所だったのだろうか。
アユタヤの町が一望できるというふれこみだったが、自然しか見えない。
だけど悪くない。
この敷地を出てすぐ左にある屋台でトゥクトゥクの運転手さんがコカコーラ買ってくれた。
暑い場所で飲むコカコーラ最高。
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