ホーチミン(サイゴン)歴史と観光

2015/09/03

アジア ベトナム ホーチミン

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ホーチミン市内(Ho Chi Minh City)及び、
クチトンネル(Cu Chi Tunnels)

ホーチミン人民委員会庁舎

ホーチミン(サイゴン)の歴史と観光


  • ホーチミン人民委員会庁舎
  • サイゴンセントラルマーケット
  • サイゴンオペラハウス 
市内を歩いていて思ったのは、西洋の雰囲気が漂うということ。
ホーチミン人民委員会庁舎やオペラハウスに限らず、そこらへんの建物でさえ西洋らしさをかもしている。

それもそのはず。ホーチミン、当時はサイゴンという名前だったが、そこは過去にフランスによって植民地とされていたからだ。
フランスの支配下に置かれていたのは1859年から1954年と100年弱に及ぶ。


セントラルマーケット
そして同年、ジュネーヴ協定によって公式に、ベトナムが南北に分断された。
南が資本主義、北が共産主義。
そして共産のソ連、資本のアメリカ両国の代理戦争となる、ベトナム戦争へ発展した。
分断されてから6年後、1960年の事だ。

当時はソ連側の北(ベトナム民主共和国)が優勢だったのだがこのまま共産主義が広がることは、資本主義を推し進めているアメリカにとって見逃せるものではない。


セントラルマーケット
しかし戦争が長引くにつれ、世界のあらゆる国々で反戦運動が起こる。
もちろんアメリカ国内でも。
自国民からも戦争に対する支持を得られなくなったアメリカは1973年に撤退。
翌々年1975年、サイゴンが落ちることによって、15年続いたベトナム戦争に幕が下ろされた。


サイゴンオペラハウス
大国のエゴの為に、小国が犠牲になる。
まさに弱肉強食だ。
そうは言うが、もちろん是としているわけではない。
戦争なんてなくなればいいのに、どうしてか今も昔も、そっちに進む国々が存在する。

弱肉強食。弱者は強者に食われる。
中国、ロシア、韓国等の周辺諸国から食い物にされないためにも、日本は強くならなければならないと一層実感した。


クチトンネル


落ちれば串刺しの罠
先ほどのベトナム戦争において、激戦区となった場所の一つ。
あらゆる攻撃から身を潜め同時に、あらゆる奇襲攻撃がアメリカ軍を襲った。


隠し穴
いくつもの罠や穴を見かけた。
敵味方問わずたくさんの血が流れたこの場所も、今となってはテーマパークのようになってしまっている。


地雷によって破壊された米軍戦車
ヒロシマの原爆ドームと違い、戦争の悲惨さを伝える場所ではない。
こんなことを成し遂げてやったんだ、と言わんばかりの展示物。
それがベトナム人の強さの一つなのかもしれない。


当時のごはん
他にも実弾射撃の場があったり、売店には空薬きょう等も売っていた。
日本国内では、戦争は暗く思いものとして扱われているよう感じるが、
ここでは全くの逆の扱いだった。
そのことに少し違和感を覚えつつ、ホーチミンへ戻った。

違和感といっても悪い意味ではない。
後世にのこす形として、私の知らない想像もしなかった方法をとっていたので、戸惑っただけである。

確かに下ばかり向いていてはダメだなと思った。
勝手な想像だが、現代において戦争を是とする人なんかわずかだろう。
だから戦争は絶対ダメというスタンスを取ったところで、あまり興味を持たれることはない。

こんな戦争があったと世代を超えて伝えるには、なにかしらのアプローチをもって興味を持ってもらうしかない。
ここはテーマパークという方向性で、興味を持ってもらうことにしたのだろう。
そんなことを思う。


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